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「なんとなく」はダメ、想像力を働かせて買う

2020年2月29日「土曜日」更新の日記

2020-02-29の日記のIMAGE
こんなこともあるのではないか。職場のお昼休み、同僚のひとりが熱心に英語の参考書を読んでいる。聞けば、ひとりで海外旅行へ自由にゆけるようにと英語の特訓中なのだという。そんな同僚の姿に「かっこいいわ」と感銘し、自分も英語の勉強を始めようと職場の帰りがけ書店でどっさり参考書を買い込んできたのはよかったが、勉強は三日坊主。参考書は「開かずの本」となったまま積み上がっている。こんなこともある。友人同士でいった京都旅行。みやげ物屋で「さて、何を買ってゆこうか」と迷っているところ、友人のひとりが清水焼の壺に「きれいねえ、これ。いいわねえ、これ」と盛んに感心している。「私、これ買っていくわ。ちょっと値段は高いけど、いいもの、これ」という友人に乗せられて、つい「じゃあ私も、これ買ってゆこう」となったのだが、帰宅してから気づいた。我が家には、こんな立派な壺を置く床の間もないし、そこらじゅう散らかり放題で、こんな壺に花を活けて飾っておくような風雅な人の暮らす家ではないのだ。結局清水焼の壺は、旅のいい思い出としてお蔵入り。蔵の中で宝のもち腐れとなっている。そのうち、「ある」ことさえ忘れてしまうだろう。さて、なぜ、このような失敗をすることになるのか。私はイマジネーションが足りないからだと思う。イマジネーションが足りないから、いま述べたような衝動買いをして、家の中を必要のないモノだらけにし、狭苦しい思いをしながら暮らしてゆくことになる。人に勧められて、何も考えずに買う。人がもっているモノが羨ましいというだけで、何も考えずに買う。人がそれを買ったから自分もという理由だけで、何も考えずに買う。これがいけない。もっと想像力を働かせよ、だ。そこでちょっと、その洋服を着た自分の姿を想像してみればよかった。それほど勉強好きでもない自分が、はたして仕事に疲れて家に帰って参考書を手にできるかどうか思い描いてみればよかった。我が家に清水焼の壺を置く場所があるかどうか思いをめぐらしてみればよかったのだ。ちょっとイメージしてみれば、ムダな買い物をしないでも済んでいたはずだろう。想像力を働かすのは買い物上手になるコツ、ムダな買い物をして、あとで悔しい思いをしないで済むコツである。 失敗から教訓を得て、同じ失敗を繰り返さないようにするのが、人間の知恵だ。失敗は成功のもと、たくさん失敗をしながら、人は買い物上手になってゆくと、ここは前向きに考えておきたい。そうすれば要らないモノを家に溜め込んで、四苦八苦することもなくなる。さて私自身、たくさんのムダな買い物をし、着ないもの使わないモノを家の中に溜め込み、しょうがなく捨てる、ということを恥ずかしながら幾度となく繰り返してきた。ゆえにいま、私の中には教訓といえるものがたくさんある。まずはそれを、ここで列挙しておこう。・モノを買うときは、イマジネーションを働かせよ。・ほしいモノはひと呼吸置いてから買っても、遅くはない。・そのモノの置き場所を決めてから、モノは買うべし。・そのモノを実際に使っている人の意見を訊いてみよ。・ローンの支払いが終わらないうちは、同じモノは買うな。・同じアイテムのモノばかり買い揃える愚行はやめよ。・日記代わりに、家計簿をつけよう。以上。順を追って、詳しく説明していこう。「家の中に必要のないモノを溜めないコツは簡単なことで、必要のないモノは買わなければいいのである。とはいえ、私たちはついつい必要のないモノを買ってしまいがちだ。たとえば、こんなことがある。ブティックの店員から「お似合いですよ、とっても」とおだてられて、ついその気になって「じゃあ、いただくわ」。ところが、家で試着してみると、なんだか自分には似合わない。返品したいが、「返品ですかあ、マイッタなあ」といった目つきで見られるのが嫌で、タンスに押し込み、そのまま「肥やし」になっている。 「いま流行している」と聞くと、そのモノがほしくなる。実際に使いこなせるかどうかは別にして、ともかく手許に置いておきたくなる。これも「他人ペース」の買い物だ。そして、えてしてムダな買い物となる。「そういえば、むかし家庭用餅つき機なんてモノがあった。発売当時は、大流行だった。我が家も我もと、買い求めた。炊き立て、つき立ての、おいしいお餅をご家庭でも作れます、という宣伝文句に、みなさん惹かれたのだ。しかし多くの人たちが、ダなんて正月を除き、そうしょっちゅう食べるものではないこと。そして機械が自動で餅をついてくれるのだから、これは楽だと思っていたが、結局お店から買ってくるほうがもっと楽だということに「買ってから」気づいたのだ。こんな簡単なことを、なぜ買う前に気づかなかったのかと思うのだが、そこに流行の魔力がある。その魔力に引き込まれて、買ったはいいが使ったのはその年だけ。翌年からはお蔵入りしたまま出てこない、ということになってしまった。まあ家庭用餅つき機ばかりではないだろう。流行しているから、ブランド物だからということで、つい購買意欲を刺激されてモノを買う。買うのはいいが、利用することもないまま家のどこかに溜まってゆく。その溜まったモノに費やしたお金を合計してみれば、いったいいくらくらいになるか。たぶん、どこかの高級ホテルで家族みんなで晩メシを食えるくらいの金額になっているかもしれない。ひょっとしたら二泊三日の温泉旅行に匹敵するくらいの金額になっているかもしれぬ。それだったら、「うまいものを食べたほうがよかったな。温泉にゆっくりつかっているほうがよかった」と反省すること、しきり。そんなふうに家のどこかに、もったいないお宝を眠らせたままにしているご家庭も、我が家も含めてさぞ多いことだろうと想像するのだ。とはいえ私たち人間には知恵がある。 上手な買い物のコツをひとことでまとめるとしたら、私なら「マイペース」といっておきたい。どういうことかというと、・自分が本心からほしいと思うモノだけを買う。・流行や、人の言動には惑わされない。・広告の魅力のある言葉にふりまわされない。あくまでも自分は自分のやり方でゆくぞ、ということだ。しかしこれが、言葉でいうのは簡単だが、実践するのはむずかしい。自分にも、よくわかっている。むかしイギリスの有名ブランドのコートを買ったことがある。そのブランド名に惹かれての衝動買いである。このコートを着ていれば、自分もイギリス紳士のように、かっこいいぞ、ダンディだぞと、そんな下心もあったのだ。とはいえ、さすがに紳士の国イギリスからやってきたコートだけあって仕立てもよろしい。しかも当時としてはまだ日本ではあまり知られていなかったメーカーだったから、これを着ている人も少ないだろうと思われた。それが思惑はずれだった。さっそく得意になって着て出かけたが、乗り込んだ新幹線の同じ車両に、私と同じコートを着ている人が何人かいる。なんだか一気に興ざめであった。それ以来そのコートに袖を通すこともなく、まったくもって「ムダな買い物をしてしまった」と、苦い気持ちで思い出す。まあ買い物というものは「他人ペース」でやると、えてしてあとで痛い目にあうようである。「他人ペース」とはつまり、私のこのムダな買い物のようなこと。自分がそのモノを好きと感じているかどうかなどは横に置いておいて、ヘタな下心を起こして、人に見せびらかしたいばかりにブランド物を買うといったことである。いま思い返しても悔しくて、ここで話を終わらせるわけにはゆかなくなった。もう少し続けねばなるまい。 禅宗では「掃除する」ことが修行のひとつになっているという。朝早く起き、座禅をし、朝食を摂り、あとはひたすら埃を払う、掃き清める、雑巾がけをするというのが、禅寺での修行僧の暮らしなのだそうだ。身の回りを清めるということが、自分自身の心をも清める。また人間修行につながるという考え方がある。「掃除」の心理的効果というのは、たしかにあるのだと思う。たしかに私たちの日常生活の中でも、たとえば仕事机の上に溜まっていた不要なモノを捨て、替類を整理し、文房具などは所定の場所へ戻す。そしてきれいさっぱり片づいた机の上を眺める。それだけでも、なんともうれしい気持ちが自然とわき上がってくるのを感じるものだ。心が軽くなった気分。そして大げさではなく、自分が人間としてひとつ成長した感じがするなあ、という気持ちもしてくるのだ。引きこもりや、うつ病の患者さんを、治療の一貫として公園や河川敷の清掃ボランティアに参加させているところもある。ゴミやペットボトルを拾って、ゴミ袋に集めて捨てるのだが、そういう行為がストレス解消となり、前向きな考え方ができるようになる。体を動かし適度な運動になるというのも、心の健康のためによい。また参加者のみんなと協力してやることで、閉じこもっていた気持ちが解放されることも期待できる。ちなみに私の家でも、家族のコミュニケーションをはかるために、家族総出で大掃除をすることがある。それぞれ役割分担を決め、協力し合って家をきれいにするのだ。掃除で汗を流したあとの一杯のビールの、なんとおいしいこと。自然と、みんなの顔に晴れ晴れとした笑みが浮かぶ。そういえば知り合いがいっていたが、彼は、家の掃除をし終わった女房の顔を見て、いつも惚れ直すのだそうだ。きれいになった部屋を見まわしているときの女房の清々しい顔、満足そうな表情を見ていると、連れ添って四半世紀の古女房ではあるが、しみじみと「きれいだなあ」と実感するのだという。この気持ち、世の亭主族であればどなたでも一度や二度は味わったことがあるのではないか。私の女房も、大の掃除好きで暇さえあればハタキとホウキをもって部屋のあちこちを歩きまわっている。そういう掃除の心理的効果によって、いつもほがらかでいてくれる。私もそんな女房を見て、日々ありがたいと思っている次第。ひとりの人間として成長するために、捨てる。少し話がずれたが、要らないモノを捨て、身の回りをきれいにすることは、こんなにすばらしい効用があるのだといいたいのである。その心理的効果を簡単にまとめておこう。・ストレス解消となる。・気持ちが前向きになる。・いい運動になる。・集中力が増す。・信頼される。・出世する。・人との協調性が生まれる。・美容によい。「捨てる」も「片づける」も、私たちが日々の暮らしの中で、さして意識することもなくこなしていることだ。しかしこれを大いに意識して、きっちりとやってゆくように心がけることだ。大げさなことを考えたり、やったりする必要はないのかもしれない。それだけで十分に人生は上昇気流に乗り、幸せがもたらされる。しかし怖いのは、この暮らしの基本的なことを疎かにすると、たちまち私たちの人生は悪い方向へと傾いてゆくところだ。基本が大事とよくいう。では、生活の基本とは何か。けっして「溜める」ことではなく、「捨てる」「片づける」ということのように思う。 「捨てられない人」「片づけられない人」は、わがままな人だ。自己中心気質(じこちゅうしんきしつ)というのか、他人のことを考えない。散らかっていることを注意すると必ず、「自分の机の上を散らかそうがどうしようが、自分の問題なんだから、周りの人になんて関係ないじゃない」というのが、その証しだ。ゴチャゴチャになった机の上を見せつけられるだけで、周りにいる人たちはイライラさせられているのだ。のみならず、しょっちゅう「あれがない、あれはどこへいった」とバタバタしながら、あっちこっちをひっくり返している様子を見せつけられたら、たまらない気持ちにさせられる。周りの人がそんな状態になっていることに、まったく無頓着なのだから、やっぱり自分の都合しか考えない人なのだ。だから、しゅっちゅう人とトラブルばかり起こしている。やる気がなく、約束したことはよく忘れ、バタバタと落ち着きがなく、言い訳がましい。さらにその上に「ちょっとねえ、机の上、片づければ」「よけいなお世話だ。ほっといてよ」といった口論もする。これでは周りの人とうまくやってゆけるわけがないではないか。「捨てる」「片づける」は、自分のためのみならず、人のためでもあるのだ。 「捨てられない人」「片づけられない人」は、精神的に大人になりきっていないところがある。遊んだオモチャをそのままにして、どこかへ遊びにいってしまう子供のようなところがある人なのだ。「きっと職場では、同僚から「ちょっといこうか、ビールでも」と誘われれば、「いいね、いこう」と机の上のやりかけの仕事はそのままにして、さっさと職場をあとにしようとして、上司から「帰るんなら、机の上をきれいにしてからいけよ」と叱られている人に違いない。身の回りがゴチャゴチャしているほうが「なんだか気持ちが安らぐんですよねえ」という人もそうだ。その人にあるのは、幼時回帰願望である。子供はモノを片づけることができない。いつもゴチャゴチャした環境の中にいる。そういう子供の頃に慣れ親しんだ環境に戻りたいという願望。こういう人はまた、見かけは立派な大人なのかもしれないが、甘えん坊だ。仕事などで、ちょっとつらいことがあると、「ぼくには、できません」と簡単に投げ出してしまう。「だれか手伝ってもらえませんか」と、すぐに泣き言をいう。言い訳がましい、という一面もある。自分の仕事の失敗を「すみませんでした。私の責任です」といえないのだ。なんだかんだと、クドクドと言い訳をする。我ながら情けないと思わないのだろうか。これでは先が思いやられると、ご自身でも思わないのだろうか。もし思うのであれば、こまめに「捨てる」「片づける」という習慣を身につけることだ。それが大人として自立するきっかけとなるだろう。機会があったら、あなたの働く会社の社長の机を見せてもらえばいい。きっと不必要なモノは一切なく、きれいに整理整頓されている机で仕事をしていることだろう。自立した大人の自覚を欠いて、仕事机をゴチャゴチャのままにした状態で、この世の中で出世してゆく人など、まずありえない。出世する人、頭角を現わす人、大活躍する人......みなさんモノの捨て方、片づけ方が上手という点で共通している。「捨てる」「片づける」というのは、子供っぽい甘えを捨てて、大人として自立する人間修行にもなる。出世する人は、そういう人間修行ができている人だ。 何かと不要なモノを溜め込む人は、「どうでもいいような用件」を溜め込む人でもある。手帳はいつも予定でいっぱい。芸能人でもないのに、分刻みのスケジュールをこなしている。とはいっても暮らしに充実感があるわけではない。毎日がバタバタとすぎ去ってゆく。自分でも何をしているのか、自分はいったい何をしたいのか、よくわからない。忙しいが、むなしい。きっと、そんなあなたは、人から「これあげる。これもらってくれない」といわれるモノはなんでもかんでも「ありがとう。ちょうどほしかったのよ、これ」と喜んでもらってしまう習癖があるはずだ。そうやって身の回りには、どうでもいいようなモノが溜まってゆく。周りの人たちからは廃品回収業者のように見なされてゆく。それと同じように、人から「ねえ、あなたもいかない。つき合って」と誘われることにも、ふたつ返事で「いくいく、私も」と答えてしまう人だ。だから「どうでもいいような用件」を溜め込んでバタバタと慌しい暮らしを送ることになる。もう少し、ゆとりのある生活を送りたいと願っているのであれば、まずは人が「あげる」というモノを、もらうことをやめることから始めたらどうか。それと同時に、人からのお誘いにも、ふたつ返事でOKといわないようにすること。「ちょっと考えさせて」といっておいて、そのことへの自分の関心度と、時間的な都合をよく勘案しながら「ぜひ、ゆきたい」ということだけ、「先日の件だけど、私もゆくわ」と答えればいいではないか。一度「いく」と約束したことでも、ちょっと忙しすぎて心も体もつらくなってきたときは、正直にそのことを打ち明けて「ごめんね」を予定をキャンセルしたっていいではないか。手帳から、捨てられる用件は捨てる。これは、ゆとりのある暮らし方をするコツだろう。 あんまりきれいに片づけられていると、かえって気持ちが落ち着かなくなるんです」。またある人いわく、「モノが散乱している机のほうが、思いがけない、いいアイディアがひらめくような気がします」。いやいや、これも「思い込み」にすぎないのではないか。これも私の見てきたところからいえば、たとえば学者の仕事部屋が散らかり放題になってゆくのは、たいがいは仕事にゆき詰まっているからである。「朝から机にかじりついているのに、ちっともアイディアが浮かばない。ああ、どういうことだ」と、気持ちがいら立っているから。レストランに入ったのはいいけれど、食事をするのを忘れて出てくるような先生。雨がふっているのに、傘を差すのを忘れているような先生。そんな散らかり放題の仕事部屋で働くボンヤリ先生に、いいアイディアが浮かぶと思いますか?気持ちが落ち着くというのは、ただ思考力が落ちて、頭がボンヤリしているだけのことなのではないか?ビジネスマンの諸君も、そんなボンヤリ先生の真似をするようなことはおやめなさい。発想がひらめくどころか、能率や意欲を停滞させてしまう恐れのほうが大だ。気持ちが落ち着くどころか、仕事がうまくゆかず、「うっかり忘れてました」で上司から叱られ、ストレスを溜めるばかりだろう。 夜型人間は「夜のほうが集中力が増し、仕事がはかどる」という。だから夜働いて、昼はボンヤリしている。小説家や画家といった自由業に就いている人には、このタイプが多そうだ。しかし、ある脳の専門家にいわせると、これは大きな勘違いなのだそうだ。ためしに被験者を募って、夜と昼、簡単な計算問題をやらせる。解答できた計算の量と、正解率にどのような差が見られたか。ほとんどの人が昼にやったほうが、夜やったときよりも、たくさんの計算をこなすことができ、また正解率も高かった。つまり昼のほうが、人間の脳はよく働いている。そして夜は人間の脳は活動がにぶる。昼によく働き、夜になったら休むという、自然なリズムが人の脳にはでき上がっているのだ。「夜のほうが仕事がはかどる」という人たちに同じ実験をやらせてみたら、やはり結果は同じだという。実際には昼のほうが、脳はよく働いている。そうなると夜型人間が「夜のほうが」というのは本人の大きな勘違い、ただの思い込みということになってくる。それと似たような「思い込み」が、何かと散らかし放題にしたがる人にもあるのではないか。ある人いわく、「身の回りが散らかっているほうが、気持ちが落ち着く。 野口悠紀雄さんの著書、「超」整理法3」の中に、こんなことが書かれている。「学者の仕事部屋は、とくに乱雑だ。エール大学における私の指導教授の研究室は、論文や書籍が机の上からはみ出して、直接に床の上に置いてあった。だから、入口のドアから教授の机までたどり着くのは、曲芸だった」。「私自身、大学病院に勤務していたこともあり、ある私立大学で教鞭をとっていたこともあるから「学者の仕事場の乱雑ぶり」は、よく知っている。これに関しては古今東西変わりはないようで、ゴミ集積所といいたくなるくらいの乱雑ぶりだ。さて、なぜここで大学教授の話をもち出したかというと、とかく学者というのは、忘れっぽい、ボンヤリしている、ということで笑いの種にされることが多いからだ。こんなジョークがある。ある学者がレストランへいって、そこを出ようというとき、給仕が声をかけた。「先生、何かお忘れではないですか」学者はムスッとして、「いつも通り、チップは渡したぞ」「いいえ、お食事を召し上がるのをお忘れになって、お帰りになろうとしています」こんな話もある。学者が家に帰ってきたが、朝もって出た傘をどこかに置き忘れてきて、どこに置き忘れたのかもわからないという。そこで奥さんが、「それじゃあ、どこで傘がなくなっていることに気づいたんですか」と問うた。その学者先生、答えていわく、「雨がやんでね、さあ傘を畳もうかと思ったんだが、そうしたら手に傘がないことに気づいたんだ」雨がふっても、雨に濡れても、傘を差すことすら忘れ、雨がやんでやっと自分がどこかに傘を置き忘れてきたことに気づいた......と。なぜ学者というのは、こう忘れっぽいのか、ボンヤリしているのか。研究テーマに没頭するあまり、いつも心ここにあらずだからか。そういう考え方もできるだろうが、やはり私はそれ以上に、乱雑な生活が影響しているのではないかと思う。身の回りの散らかし放題が原因なのではないか。「乱雑性物忘れ症候群」とでも名づけたいようにも思うのである。これについては、もう少し話を続けたい。 仕事机の上が散らかっている人は、頭の中も散らかっている。そのために、よくもの忘れをする人でもある。約束していた仕事を忘れ、約束していた期日を忘れ、約束していた買い物を忘れ、電話する約束をしていたことを忘れ、資料を送る約束をしていたことを忘れる。そうやって人に迷惑をかけている。当然のことながら、周りの人からは信用されなくなる。「あの人って、だらしのない人なのよ。大切なことは任せられないわよ」「そうよ、あの人がだらしのないのは、机の上を見ればわかるじゃない」なんて噂が立つようになる。「私の机の上がゴチャゴチャなことと、私が忘れっぽいってことと、どういう関係があるのよ。むりやりに、こじつけないでよ」と反論したくなる気持ちもわかるが、やはり机の上と忘れっぽさには相関関係があると、私も思う。理由、その一。机の上が散らかっていると気も散って、大切なことをつい忘れる。理由、その二。机の上が散らかっていると、備忘用のメモがいつの間にか、どこかに消えてしまうことがよくある。一度、机の上をこまめに整理する習慣を、ひと月ほど続けてみてはどうか。「あ、うっかり忘れてました」といったトラブルが奇跡的に減少するはずだ。「要らないモノは捨てる」ことの効用が実感できる。ところで大切な用件はメモに普き、どこかよく目につくようなホワイトボードか何かに張り出しておくという人もいるだろう。私はボードではないが、食堂の鳥にくわえさせておくことにしている。鳥とはいってももちろんホンモノではなく、口でパチンとメモ用意を挟んでおくための物だ。食事のときにチェックして「うっかり」が起こらないように注意しているわけだ。さてそのとき、それこそうっかり忘れがちなことがある。大切な用件のメモをそれにくわえさせておくことは忘れないのだが、必要のなくなったメモは破り捨てておくということを忘れがちなのだ。これを忘れていると鳥の口がメモ用紙でゴチャゴチャになってゆき、大切なメモを見落とす原因にもなりかねない。要注意である。 職場の休憩室に、ひと月もふた月も前の、ときには半年近く以前の雑誌までが積み上がっている光景を見かけることがある。だれかが読んで、ほかに読む人がいるかもしれないと思ってそこに置いてゆくのだろうが、そのような気遣いは不要なのではないか。自分が読み終わったら捨てればよい。そうでないと休憩所が古紙置場になってゆく。また、だれも読まない雑誌が積み上がっているのだから、気づいた人が捨てればいいと思うのだが、だれもが、見て見ないふり。仕事机のように自分専用の場にあるモノであれば、自分の判断で捨てることができる。しかし休憩室のように共有の場にあるモノは、自分の判断で捨てていいのか悪いのか迷うということなのかもしれぬ。これはある意味、上司の仕事なのではないか。共有の場に積み上がっている不要なモノは、上司が責任をもって捨てること。置場に溜まっている、だれのものかもわからぬ傘しかり。コピー機の横に置いてある、これもだれのものかもわからなくなった国語辞典しかり。ロッカーの上に置いてある、使い道のない資料の山しかり。ときどき職場を巡回してみて、こういった不要なモノを捨ててゆくこと。そういう仕事は部下に任せても、部下は判断に困る。それよりも、ここは上司の判断で、さっさと捨ててゆくこと。これも社員に働きやすい環境を作る、上司の仕事であろうと思われるからだ。 仕事机の上がいつも散らかっている人は、あきっぽい人だ。集中力が長続きしない人であり、そのせいで仕事にふり回され、日々忙しい人である。パソコンに営業経費の数字を入力しているときに、チラッと横を見ればお昼休みにコンビニで買ってきた雑誌の広告に人気俳優がいま新作映画の撮影中だという記事が目に入る。「どれどれそれで、どんな内容のドラマなんだろう」としばし、雑誌に読みふけっているところへ、「○○さん、ちょっと」と上司に呼ばれる。さてふたたび自分の机に戻ってきて、気を取り直して「仕事、しなくちゃ」。しかしパソコンへの入力業務をさっきどこまでやったのか、どこから始めればいいのかわからない。「えーと......」と資料とパソコンの画面を見比べているときに、机の横のほうに置いてあったペットボトルを手に引っかけてひっくり返す。水が隣の人にかかって「ちょっと、何やってるのよ」「あ、ごめんなさい」「注意してよ」「だって、いま」とやっているうちに、先ほど上司から受けた指示をメモしておいた紙片も失くなっている。あれ?あれあれ......で、また始めからやり直しとなり、とても忙しいのである。ドジな人は大忙し......で、仕事は一向にはかどらない。仕事に集中できるわけもない。職場には、たくさんの人がいる。四方八方から話し声が聞こえてくる。上司に呼ばれる。急な仕事を任される。電話は鳴る。突然の訪問者もある。それでなくても気が散る環境ではある。だからこそ、ここぞというときは集中してどんどん仕事を進めてゆかなければ、あっという間に日が暮れるのだ。「そんな「ここぞというとき」に、それでなくても気が散りやすい職場において、みずから仕事机の上を散らかして仕事に集中できない環境を作っているのだから、困る。仕事に集中するためにも、仕事机の上から不要なモノは一掃せよだ。昼休みに読んだ雑誌など、仕事が始まる前に捨ててしまうこと。雑誌のほかにも、捨てていいものがたくさん机に積み上がっているのではありませんか。この際、ぜんぶ捨ててしまいなさい。「ドジな人」の要因となるようなモノは、自分の周りから極力排除してしまうこと。仕事ができる人は、いつも身の回りをきれいさっぱりとしている。いってみれば「仕事への準備」ができている。 「四十歳すぎたら、自分の顔に責任をもて」といわれる。若いうちは、いいのだ。やる気がない人であっても、瞳はキラキラと輝く。だらしのない暮らしをしている人であっても、肌はツヤッヤとしている。内面的なものも、暮らしぶりも、若さでなんとかカバーできる。ところが四十すぎると、そうはいかなくなる。隠せないのはシワやシミばかりではない。その人の内面性や生活面も隠せなくなるのだから、怖い。やる気のない人の瞳は、生きているのか死んでいるのかわからないような感じとなり、だらしのない暮らしをしている人の肌も、それなりに色つやが悪くなる。「その人の顔に、その人がどんな考えをしているか、どんな生活をしているかが浮かび上がってくる。だから「四十歳すぎたら、自分の顔に責任をもて」なのだ。それまで自分がどうやって生きてきたかが、顔に現われてしまう。顔は怖い、そう心得よ。ところで私は、「四十すぎたら、自分の仕事机の上に責任をもて」ともいいたい。仕事机の上も、あなたの顔と同じである。やはり、いま何を考えているか、どういう暮らしをしているのか、が自然と現われてくる。ある上司がいっていたが、たとえば「こんな仕事、やってられるか」と不満をもっている部下の机の上は乱雑になりがちだという。いくら注意をしても片づけられない。自分の身の回りを散らかすという行為は、一種の反抗心の表われだそうだ。また私生活が乱れがちな人の仕事机も、やはり乱れがち。何があったのか知らないが心が上の空状態で、整理整頓どころではなくなっている証しなのだという。この上司、なかなかの心理学者のようであるが、私も「捨てられない人」「片づけられない人」の心理学的な人間観察を、いくつか述べてみたい。私の見るところ、仕事机の上に不要なモノがいっぱい散乱し、それを捨てたり片づけたりする様子もなく、ほったらかしにし、平気でゴチャゴチャした机で仕事をしているような人は......箇条書きにしておく。・捨てられない人は、集中力がない人。・捨てられない人は、もの忘れが多い人。・捨てられない人は、いつもバタバタの人。・捨てられない人は、甘えん坊の人。・捨てられない人は、人間関係がヘタな人。......さて、私なりにこう思う理由を述べる。 老化現象が進んだ人も「捨てられない人」だが、心がストレスだらけになっている人も、やはりそうである。捨てられない。働きすぎて、ちょっとお疲れなのではありませんか。毎日残業続きではありませんか。休日出勤までしているのではありませんか。人間関係で悩み事があるのではありませんか。仕事にプレッシャーを感じているのではありませんか。そうとうムリをしているのではありませんか。思い当たるということがある人は、自分の身の回りを見渡してみればいい。要らないものは、そこらじゅうに散乱しているのではありませんか。その散乱したモノを片づけるにも、片づける気力が出てこないといった状態なのではありませんか。いい換えれば「捨てられなくなる」「片づけられなくなる」というのがひとつのバロメーターになる。「忙しくて、整理している暇がないんですよ」という人もいるが、おそらく、ただ忙しいからだけの理由ではない。忙しすぎて、そのストレスのために気力がなえている、心身が衰えてきている兆候が出てきているのだ。「捨てられなくなる」「片づけられなくなる」は、いまのままの状態を放っておくと、たいへんな病気になってしまいますよ、怖いですよ、というシグナルでもある。要注意。ムリをすることをやめることである。休日には、しっかり休むこと。あまり思い込まないことである。そうやって、「きょうはゴミの日だったな。要らないモノは捨てるとするか」という気持ちが自然にわいてきたときには、まあ、心に溜まっていたストレスもかなり解消されてきた証しとなる。自分の身の回りが、いつもきれいに整理整頓されている状態にある。要らないモノ-が散らかっていることもない。それは心身ともに、いま自分は健康であるという証しでもあるのだ。自分の身の回りを見て、自分で自分の健康チェックをすることもできる。しかも、いつでもできる。お金もかからない。日頃の手軽な健康チェックとして、きょうから「捨てる」「片づける」を実践してみよう。 私は「捨てられない」というのは、人の老化現象のひとつだろうと考えている。人間、年を取ると、だんだんモノを捨てられなくなる。「思い出のある品物だから」と年寄りはいうが、なに、そんなことはない。ほんとうのことをいえば「捨てる」ことが、ただ億劫なだけ。「捨てることなんて簡単なことじゃないか」というかもしれないが、仕分けをし、で縛り、梱包し、もち運んでゆく、これだけでもそうとう億劫なのだ。いや、そんな肉体的なたいへんさよりも、精神的に億劫なのかもしれない私も四谷から府中へ大引越しをしたときは、たいへんだった。なにしろ長年暮らしてきた家である。それでなくてもモノがたくさん溜まっている。捨てなければならないモノも、たくさんある。のみならず父の茂吉に関係するモノも膨大にある。自分のモノならいざ知らず、茂吉のモノとなるとおいそれとは捨てられない。これは捨てていいモノか、保管しておかなければならないモノか、よくよく吟味しなければならなかった。「そのことを考えるだけで億劫になり、ヘトヘトになってくる。実際に作業に取りかかってヘトヘトになったわけではなく、考えるだけでヘトヘトになってくるのだ。おかげで私は、うつ病になりかけた。名づけて、引越しうつ病である。おかしなことだが、そんな私がうつ病になりかけただけで、実際にはならずに済んだのは、引っ越してしまったからである。行動に移してみれば、なんのことはないのである。考えることが億劫なのだが、これも老いて気力がなえた証しだったのだろう。ところでまだ若いのにモノを捨てるのを億劫がり、至るところに不要なモノを溜め込んでいるあなた。すでにあなたには老化現象がそうとう進んでいますよ、といっておこう。・スポーツクラブにでも通い、体を動かし汗を流すことをしたほうがいいのではないか。食事も栄養のバランスのいいものを、三食きちんと摂るようにすること。なんにでも好奇心をもち、新しいことにチャレンジするようつとめることも大切だ。趣味をもつのもいい。家に閉じこもるのは、よろしくない。外出する機会を増やし、人間関係も広げてゆこう。そうやって若返り対策でもやれば、いや心身年齢を実年齢の状態に戻す努力をすれば、「捨てる気力」もよみがえってくる。身の回りの整理整頓もできるようになる。小ざっぱりとした暮らし方をできるようになる。たとえ年を取っても、要らないモノはどんどん捨てて、いつも身の回りをきれいにしていられる人は、まだまだ気力が充実している。心身ともに若い証しなのである。 まだ日本が貧しくてモノが不足していた時代ならいざ知らず、人が「使い道がない」というモノを、はたして喜んでもらってくれる人がいるのかどうか。ちなみにいっておけば、これは聞いた話だが「リサイクルして有効活用させてもらいます」と引き取られていったモノも、その大半は焼却処分、埋め立て処分されてしまうのが、残念ながら現状であるそうだ。さて、「もったいないから捨てたくない」という気持ちはわかるが、「もったいない」にも色々と諸問題があるということを述べてきた。まとめておこう。・「もったいない」は、徹底的にモノを使いきる技術、使いきって捨てる技術である。捨てないで、取っておく技術ではない。・モノは使わないでいると品質が悪くなってゆく。モノを大切に思うのであれば「使うのは、もったいない」などと考えず、どんどん使い込んでゆくほうがよい。・使い込むことで、モノへの愛着が生まれる。次々と新しいモノに買い替えてゆくよりも、たとえボロボロガタガタのモノであっても、愛着のあるモノに囲まれて暮らすほうが、人間幸せである。・「捨てるのは、もったいない」でリサイクル業者を探す。インターネットなどで、自分で売ろうと思う。もらってくれる人を探す。しかしそれは面倒なことだし、ときにありがた迷惑にもなりやすいことを、おぼえておこう。・「もったいない」は、自分のできる範囲で実践しよう。できないことは、しようと思わないこと。そのときは、いさぎよく捨てること。・自分にできないことをしようと思うと、「もったいない」でモノを疎かにすることになる。ムリは禁物。 ゴミとなって燃やされたり、どこかに埋められたりするよりも、どこかにだれかもらってくれる人がいるならば、モノとしても満足だろう。捨てることに良心の呵責をおぼえることもない。こちらとしても、喜んで「いってらっしゃい」と、我が家からモノを送り出すこともできそうだ。しかし、その「だれか」を探し出してくるのが面倒臭くて、「捨てるのはもったいないから、だれかにあげる」とはいったものの、ついそのまま要らないモノを溜め込んでいる人もいる。それでは困る。ちゃっかりした人ならば、要らなくなったモノを捨てるのにお金を支払うなんて、もったいない。そのモノを売って、むしろお金に換える方法はないかしら、と考える。たとえばフリーマーケットに出品する。たとえば、インターネットを使って自分で売る。ところで、そのためには替察へいって、古物商の免許を取得してこなければならない。古物商の免許はありますか。ないなら、すぐに取らなければならぬが、しかし警察まで出向いてゆくのが面倒臭くて、これまた要らないモノをそのまま溜め込んでいるという人もいる。リサイクル業者を探し出してくるのも面倒だ、古物商の免許を取ってくるのも面倒臭い。そんなことに時間を奪われるよりも、友だちとどこかへ遊びにゆきたい。観たい映画もある。さてそこで友人や親類、ご近所さんなど、だれか身近にいる人に「ねえ、これね、うちじゃあ使い道がなくて、あなたよかったら、もらってくれない」と訊きまわる。しかしこれは往々にして「ありがた迷惑」になりがちだから要注意だ。考えてみれば図々しい。「この缶詰、賞味期限が切れているけれど、まだまだ食べられるわよ」といいながら自分では食べず、賞味期限のことは黙っておいて「どう、おいしいでしょう。あなたぜんぶ食べていいのよ、私食べないから」とやっているようなものだ。 考えてみれば「もったいない」を実践することは、なかなか骨が折れることである。知識と工夫と努力と、そして何よりも熱意が必要だ。この熱意に欠ける人がよくいうのが、「捨てるのはもったいないから、だれかにあげようと思っているの」だ。この「だれかに」がクセモノなのである。いつまでたっても「だれかに」であり、一向に具体化しない。したがって要らないモノはいつまでも、どこかに山積みにされたまま放置されることになる。「もったいないから、だれかにあげる」とひと口でいっても、面倒なことがたくさんあるのだ。たとえばリサイクルに出して、必要な人にもらってもらおうと思う。とはいえリサイクル業者といっても、なんでもかんでももっていってくれるわけではないだろう。うちは家電製品、うちは古紙と、それぞれ専門分野がある。はたして自分がいま引き取ってもらいたいと思っているモノは、どこのリサイクル関係者がもっていってくれるのか。住所は、連絡先は、自分の家まできてくれるのか、こちらからもっていかなければいけないのか。それに無料でもっていってくれるのか。それともお金がかかるのか。お金がかかる場合は現金で支払えばいいのか、それとも何かシールのようなものを買ってそれを引き取ってもらうモノに張りつけておけばいいのか。モノの出し方は、どうするのか。そんなリサイクル情報は、集めてくるだけでもけっこうな手間だろう。その手間を惜しまないというのであれば「だれかにもらってもらう」ことは、大いにけっこうなことである。それに越したことはない。 手先が器用でモノを長もちさせることができれはそれに越したことはないのだろうが、不器用ならば不器用なりに大切にすればよい。そして「大切にする」とは、イコール「使う」ということなのである。「もったいない精神」を実践しようとするとき、私たちはえてして理想論に陥りがちだ。たとえば不浄な話で申し訳ないが、むかしは新聞紙を捨てるのが「もったいない」とトイレの紙に使う家庭も多かった。いま古新聞紙を、そういう使い方にする家庭はないだろうし、せよといってもムリな話だろう。しかし古紙をリサイクルに出して、再生紙として使ってもらうことはできる。自分にできる範囲で、自分なりにすればよい。大根の葉っぱを捨てるのはもったいないとはいえ、料理が苦手でゴマ油炒めなんてとてもできそうもないという人は、大根の葉っぱは捨ててしまってもいい。そこで「もったいないから、とりあえず取っておこう。あとで料理の仕方をだれかに教わって料理しよう」などと考えるから、冷蔵庫の中で食べられなくする。そういう気分的な願望がゴミを作る素だ。着なくなった背広はリサイクルに出そうと考えるのは立派だが、忙しくて、そういうモノを回収してくれるリサイクル業者を探している暇がない。そうであれば仕方ない、捨てたってかまわないのではないか。「もったいない」とは、行動が伴わなければ意味がない。自分にできないことは、しないことだ。これも「もったいない」の上手な実践法だろう。 「もったいない」という言葉から、私は母の輝子を思い出す。明治生まれの人はだれでもそうだったのだろうが、母はそれこそ「もったいない精神」のもち主で、だれもいない部屋に電灯がついていないかと家の中を歩きまわる。電灯がついていたりすると「もったいない、もったいない」とつぶやきながらパチッと消してゆくのだ。水道の水がチョロチョロと流れているのを見つけても、あわてて「もったいない」と、キュッと閉め直す。だれが母にそんなことを教えたのか知らないが、ある日突然「お茶の出し殻にも、まだ栄養がたくさん残っているんだ」といい出して、だから捨てるのはもったいないと出し殻を乾燥させてフリカケにして私たちに食べさせた。「もったいない」のはいいのだが、おかげで家族全員が胃の具合を悪くし、消化不良をきたすことになった。そこで私はこれに「母原性消化不良症候群」という病名を与えた。さて、そんな母はモノに関しても、「自分はモノをムダにすることが嫌いです。モノは長く使います」と公言していた。だが、母はモノを使うのが不器用なほうで、自分では大切に長く扱っているつもりでも、実際にはすぐにモノをダメにした。旅行用のトランクなどは、だいたい買ってから二年ぐらいしかもたない。カメラなどもすぐにダメにして、よく買い替えていた。とはいえ先ほども述べた通り、使わないでモノをダメにするよりも、使ってモノをダメにするほうが、モノを大切にすることにつながる。その意味では、母はやはり、もったいないことはしなかった。モノを大切にする人であったのだと思う。要は、自分なりに大切にすればよいのだ。 しかしそれは束の間の楽しさ、いっときの幸福感でしかない。あした、あさってになれば、はかなく消え去る。だからまた新しいモノを買ってきたくなる。買って買って買いまくって、家にはモノがあふれ身動きもできないような事態になる。使い捨ての時代といわれて久しいが、私にいわせてもらえば、使い捨てじゃない。使わず捨て、だ。いや往々にして使わず溜め、だ。「買ってきたモノを梱包も開けずに、そのまま部屋の片隅に放うりっぱなしにしている人だって、どこかにいそうだ。「買い物依存症」という言葉もあるが、はかなく消え去る、束の間の楽しさ、いっときの幸福感ばかりを追い求めてゆくから、そういうことになる。使い込んでゆけば、それなりに愛着がわいてきて、おいそれと押入れなんぞに放り込んで、そのままにしておくことなどできなくなる。かわいく思えてきて、いつも身近なところに置いて使っていてやらなければ申し訳ないような気持ち。だから新しいモノを買ってこようとも思わない。だから不必要なモノが溜まることもない。新しいモノがほしくなっても、少しだけがまんしてみたらどうか。そして、いま使っているモノをもう少し使い続けてみたらどうか。愛着が出てくるまで、である。そうすればもう新しいモノに、むやみに買い替えたくなる気持ちも薄らいでゆくだろう。これも夫婦関係と同じ。新婚当時の幸福感など、はかなく消える。しかし、そこでどう考えるかが、人生の分岐点なのである。 私は、いったん使い始めたモノは浮気せず、長いこと使うほうである。母の輝子の場合はボストンバッグの使用期間は二年だったが、私の場合は少なくとも十年は使った。ボロボロになるまで、だ。戦後、免許を取って初めて買った自動車は、イギリスのシンガー・モーターズという会社が製造した外車だったが、これは十九万三千キロも乗った。これだけ乗るとガタもくる(というよりも中古車で買ったので、最初からガタがきていたのだったが)。しょっちゅう故障する。また箱根あたりに遠出するときは、湯本あたりで車を止めてエンジンを冷やさなければならなかった。ときにはバケツで川の水を汲んできてかけてやらなければならなかった。しかし、そんなガタガタの自動車でも、手間をかけて長年乗っているうちに愛着がわいてくる。思うのだが人は、たとえボロボロ、ガタガタであっても、愛着のあるモノに囲まれて暮らすほうが幸せなのではないか。こういってはナンだが、夫婦だってそうである。長年連れ添えば連れ添うだけ、相手への愛着が生まれる。「おれの女房はボロボロさ」「私の亭主はガタガタよ」とつれないことをいいながら、そんなボロボロ、ガタガタの関係ができ上がった夫婦には、若い人たちには獲得できない幸福感といったものがある。人と人との関係がそういうものならば、人とモノとの関係もそうなのではないか。たしかに新しくて、まだピカピカしているモノを買ってきて身近なところへ置いておくと、気持ちも幸せになってくる。ショッピングも楽しい。 医学用語に「廃用性萎縮(はいようせいいしゅく)」というのがある。骨折をしてギプスをはめることになると、ギプスをはずす頃にはその部分の筋肉がすっかり落ちている。長期間使わなかったため、衰えてしまったのだ。痴呆の原因のひとつに、この廃用性萎縮を挙げる人もいる。頭も筋肉と同様に、使わないと衰えが早い。モノにも「廃用性萎縮」が起こるのだ。本皮製の旅行カバンなど、高価なモノだからと大切にしまっておくと、気づかぬうちにカビだらけになっている。家屋なども、そこに住んでいるうちはなんともなかったのに、長く家を空けていたりすると水道管にヒビが入って水が出なくなったり、壁のどこかが崩れ落ちたりしてくるものだ。電化製品もそうである。ひと月あた月使わないでいると、電源を入れてもウンともスンともいわなくなる。しょっちゅう使っていたときには、そんな故障はまったくなかったのにだ。私は、こういいたい。モノを大切にするなら「使え」と。使われることもなくボロボロになって捨てられるより、使われきってボロボロになって捨てられるほうが、モノとしては本望だろう。そして私たちにも充実感が残る。使うことがモノと私たちの、いい関係を築くことになる。 モノは使いきってこそ「モノを大切にする」ことになる。「捨てる」ところまで有効に使いきってこそ、である。ただ「もっている」だけでは、モノを大切にすることにはならない。中国に、こんな笑い話があった。あるケチな男は毎日、靴下をはかずにすごしていた。靴下をボロボロにしてしまうのが、もったいないというのだ。さてある日、いつものように靴下をはかずに知人の家へいった。家の前で犬がワンワン吠え立て、駆け寄ってくると、男の足に噛みついた。見ると、足から血が流れている。そこで男はひとこと、「ああ、よかった」。なぜかというと「もし靴下をはいていたら、靴下に穴を開けられているところだったぞ」という。まあ、そこまでの覚悟と根性があるのであれば、モノは使わずに、ただ「もっている」だけでも可としよう。しかし考えてもらいたい。大切にタンスの中にしまっておいた靴下は、そこで虫に食われて穴だらけになっているかもしれないではないか。いや、きっとそうなっている。そういうことならば犬に食われてしまったほうがいいではないか。おそらく靴下に守られて、足から血を流さずに済んだだろうに。だいたいモノというものは、大切に保管しておくよりも、使ってやったほうが品質が長もちする。保管しておくほうがかえって早くボロボロになり、ダメになるものだ。現に、こんな笑い話だってある。これもドケチなことで有名な、ある老人。老人がポケットから財布を取り出して開けてみると、中から蛾が三匹這い出してきた。それを端から見ていたある人、「あの爺さん、あんまり長いあいだ財布を開けなかったもんで、中でさなぎから羽化しちまっていたんだよ」金が減るのを惜しんで、財布を使わなかったから、いつの間にかそこに蛾が寄生したというわけである。 「捨てるのは、もったいない」と大根の葉っぱをもって帰って、そのまま冷蔵庫の中に放り込んだままにしておいて、葉っぱを枯らして食べられなくする人。着なくなった背広を「捨てるのはもったいないから、今度リサイクルに出すから」とはいったものの、そのままタンスの肥やしにし続ける人。これでは困る。せっかくおいしく食べられるものを食べられなくするほうが、せっかく利用価値のあるものをタンスの肥やしにしておくほうが「もったいない」ではないか。「もったいない」といいながら、自分が「もったいない」ことをしている。おそらくは思い違いをしているのだ。「もったいない」とは、「捨てないで、取っておく技術」ではない。「もったいない」というのも、ある意味、「捨てる技術」なのである。大根の葉っぱを、食べて「捨てる技術」だ。タンスの肥やしとなっているスーツを、リサイクルに出して「捨てる技術」だ。決して、捨てないでおく、取っておく、溜めておく、技術ではない。さらにいえば「活かすために捨てる技術」。これを思い違いするから「もったいない」で、不要なモノを溜め込むことになる。整理のつかない、ゴチャゴチャした環境で、息苦しい思いをしながら暮らしてゆかなければならないことになる。 「捨てるのは、もったいない」という人がいる。一理ある。大根の葉っぱを捨てるのはもったいないから、「葉っぱは取らないでおいてちょうだい」とスーパーから家へるち帰り、細かく刻んで、油揚げといっしょにゴマ油で炒めて、惣菜を一品こしらえる。葉っぱつき大根と、葉っぱなし大根、値段は同じでありながら惣菜が一品増えたのだから、これは「もったいない」でモノを有効活用する知恵といったところだ。大根の皮を捨てるのももったいないから、これもキンピラにしてしまう。なおさら、よい。ここまで食べ尽くしてやれば、大根も本望だろう。心置きなく成仏できる。三年前に買ったスーツ、晴れ晴れとした気持ちで着ていったが、職場の同僚からの「あなたって趣味悪いね」とのつれないひとことで、「もうこんなスーツ、着ない」と、それ以来一度も袖を通さずにいるスーツ。自分はもう着ることもないだろうが、捨てるのは「もったいない」から、ボランティアでリサイクル活動をしている人にもっていってもらう。まだ利用価値があるのであれば、これも有効活用である。モノである限り、必ずどこかに使い道がある。たとえ着古した背広であっても、雑巾にするという方法もある。パッチワーク用の生地にして、テーブルクロスをこしらえるというやり方もある。工夫次第で、どうにでもなる。だが中には、こんな人もいそうではないか。 よく読まず捨ててしまって、有用な情報を見すごしてしまって、それであとで損をしたり後悔したりすることになるかもしれないが、それは仕方ないこと。人生には、いさぎよくあきらめるしかないときもある。さて職場に溜まった紙類はどうするか。職場には「〇曜日は、古紙回収の日」というルールはない。仕方ない。自分で「〇曜日は、溜まった紙を処分する日」というルールを作っておくしかない。あとは意志を強くもって、実践あるのみ、だ。ところでちょっと忘れがちだが、大切なことがある。要らないモノを、ゴミ箱へポイ。そこで安心してしまう人が多いのだ。ゴミ箱へポイで、「おしまい」ではない。ゴミ箱に溜まったモノも、ちゃんとこまめに捨てておくこと。そうしないとゴミ箱の中でモノが山のようになり、そこからあふれ出し、そこらを散らかすことになる。ゴミ箱からモノがあふれているような家に住みたいですか。ゴミ箱からモノがあふれているような職場で働きたいですか。みなさんの答えは、もちろん「ノー」だろう。そうならばゴミ箱にあるモノを捨てることも、お忘れなく。掃除の人がるっていってくれるから、それは女房の仕事だから、などと人任せにするのはやめよう。気づいたら、自分ですぐにだ。ゴミ箱の中も、きれいに。これも「心地よい暮らし」のためである。 とてもとても「いま忙しいから、あとでゆっくり目を通そう」などと悠長なことなどいっていられない。どんどん捨てていかなければ、またたく間に紙に埋もれて生きてゆかなければならなくなる。そこで、こんなルールを作っておくのはどうか。・情報の選球眼を養って、見ないで捨てる。・その日がきたら、容赦なく捨てる。「見ないで捨てる」とは、ボール球はふるな、ということ。いつだったか野球の解説者がいっていたが、いい打者というのはボール球には手を出さない。これぞという球だけを、確実に打ち返してゆく。つまり選球眼がいい。私たちも、この情報は役に立つか立たないかを一瞬にして見極める、いわば選球眼を養っておく必要があるのではないか。そうしなければ情報化のこの時代、情報化とはつまり先ほど述べたように、情報の記載された紙があふれるこの時代を生き抜いてゆけないと思うのである。広告チラシを捨てるか、取っておくか、一瞬にして見極める選球眼。駅の売店で買った雑誌を家までもち帰るか、途中で捨ててくるか、その場で判断する選球眼。これで紙類の半分は、上手に処理できるはずだ。そしてもし「あとでゆっくり見よう。もう一度、詳しく読んでおこう」と、取っておいたモノであっても「その日がきたら、容赦なく捨てる」である。これは「定期的に捨てる」ともいい直せる。幸いにいま、ゴミの分別収集が一般的になってきている。あなたの暮らす町に「〇曜日は、古紙回収の日」というルールがあるのではないか。この「〇曜日」が「その日がきたら」となる。この日がきたら、まだ見ていない読んでいないモノであっても容赦なく??

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